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親父

2007年11月30日未明、親父が他界しました。享年62歳。

最後に会ったのは10月の下旬だったろうか、その時は甲状腺がひどく腫れていたものの、飯を食べ、タバコを吸い、ゴルフを興じるくらいは元気だった。

私には兄が2人おり、3人全員が関東に住まいがあり、親は実家の福井に二人で住んでいた。 兄2人はすでに結婚し、子供も生まれ、親父からすれば息子・孫が関東にいる状況で、なんとなく以前より話は出ていたが、両親が関東に引っ越すかもしれない、という事を聞いていた。そんな折、関東に物件を見に行くのに付き合ったのが10月下旬の出来事だった。

親父としては長兄家族と暮らしたいらしく、定年も見え始めた年齢だったので、老後を関東で過ごすつもりだったのだろう。そこそこ楽しそうに物件探しをしていた。

本人が医師だった事もあり、現状の日本医療制度に対しての不満をよくこぼしていた。 延命措置の愚かさ、人間のあるべき姿、自身の立場の矛盾点。そして自ら強い意志で自分の病で病院にかかることを拒否していた。

祖母のこと

3年前に祖母が亡くなったときも、病院に入れることはせずに、老人施設で静かに見守った。ボケが進行して、孫の私が誰だか分かっていない祖母を、深く、寂しく、優しい目で見つめていた親父が忘れられない。

肉親が、医療施設ではないところで天寿をまっとうする事の潔さ、辛さを見せてくれた。 祖母の火葬場で、親父が最後の点火ボタンを押したとき、泣き崩れたその姿は、言葉にできない感情とともに涙が出た。

07年11月30日午前

友人宅で夜通し楽しく語り込み、固い床での目覚めだった。携帯がブルっていたので未読のメールに気付き、開けてみると、母からだった。

「お父さんが亡くなりました。すぐに帰ってきてください。」

一瞬視界が歪んだ。瞳孔が開くのを感じ、そこから福井までの道中はほとんど記憶にない。 頭の中は「まさか、いや、そんな、いきなり過ぎる」の繰り返しだった。

電車の中ではウトウトしながら現実との狭間をさまよい、どこでどうやって切符を買ったのかも覚えていない。

福井に着いたときには既に通夜が始まっており、小規模な親族が集まり、すすり泣く声とともにお経があげられている場に直面し、あぁ、現実だ、とその時理解した。

次男が既に駆けつけており、夜遅くに長男が到着した。

父はとにかくインターネットが好きだった。新しいことを吸収する能力は低かったけど、よく相談をされ、他愛もないやり取りをしていた。

「調べ物をしたいのに、検索結果に、なんか人の会話みたいなのがでてきて、なーんも分からん。」

そんな父にWikipediaを教えたら、喜んで活用していた。

情報を収集する事はできるが、ブログの運営などは無理なレベルだった。

死後、生前親父が執筆していた「泌尿器科ってナニ科?」を母から渡され、ネット好きだった父の弔いにweb化しようと決めた。

好きだったものは、へしこ、日清ラ王、松茸、カニ、肉全般、マッサージチェア。まぁ、健康にいいラインナップではなかった気もする。

福井からの帰りの電車の中、うとうとしていた時に、祖母と親父がニコニコしながら話し合っている姿が見えた。

こちらを見ていなかった。本当に、本当に、幸せそうな笑顔で話し合っていた。

まだ、全然実感が湧かないけれど。いつか自分も父親になる日が来るのだろう。死を迎える日が来るのだろう。

老人になって病気したとき、医者にかかるかどうか、今から深く考えておこうと思う。

さようなら、お父さん。

親父が残した遺書

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