今ひとつは仮に精力的に調査しても、学問的には、人類の健康に奇与するようなデータが得られる可能性は少ないだろうということである。もし何らかの興味あるデータが出たとしても、
「だから、どうだっちゅうの」
という一言で、研究評価は終わり、後はせいぜい酒のつまみ話の域を出ない。
少ない報告書によれば、日本人の静止時のシンボルの長さは平均8センチ、勃起時の長さは平均16センチ、太さは平均11センチとされる。泌尿器科に長らく籍を置いていても、勃起時の陰茎を目の当たりにすることは少ないが、静止時のものは数え切れない。
自分のは小さいのではないかと心配して科を受診する男性は少なくないが、それが紙巻き煙草ほどお粗末ならば問題だが、本人がそんなに心配するほど貧弱なのはこの30年間、ひとりも診察したことがない。
知り合いの泌尿器科のN先生は、明らかに自分が平均値以下のサイズであるという自覚を持っていて、そんな患者が来ると、おもむろに患者と2人で診察室のカーテンの中に入り、本人の前でパンツを下げて、
「小さいと思うだろ、でもな、わしには子どももいるし、女房が文句を言ってもおらんよ、ちゃんと間に合っとるよ」
と話すのを定番にしていて、どんな説明よりも患者は納得して帰って行くそうである。
このやり方が、なにもそこまでせんでもと考えるのか、実にすばらしい、泌尿器科医の鏡だと評価するかは、仲間うちでも意見が分かれている。
その反対に位置するのがO先生。銭湯で例のまな板に足がついたような台に座り体を洗っていた時、近くの友人が、後方面から洗面器の少し熱めの湯をそっち方面に作為なく流した時
「あちぃー」
という大声がして、そっちを見たら石鹸のついた流れ行く湯が、ちょうど叫び声の下から、V字型に二筋に分かれて流れていくのが見えたという。
このエピソードを正しく理解するには、シンボル先端の温度に対する感受性は、足の裏など比較にならないくらい鋭敏であるという基礎知識が必要である。
]]>一方、同級生のD先生は童顔で、声も小さくあまり目立たない存在であった。二人の卒業生は大学の泌尿器科に入局すべく、教授の所に挨拶に言ったところ、
「君はよく見る顔だ、そうかC君か、まあしっかりやりたまえ、確か君は講義の時は何時も一番前の席にいたね、うん、真面目によく出ていたね、うん」
「あ、D君ね、まあ、しっかりやりたまえ」
と二種類の反応があったらしい。
しかし客観的事実は、C先生の講義の出席率は、ほぼ皆出席のD先生に遠く及ばなかった。ただC先生は、出席する時には意識的に教室の前の方の席に陣取り、その印象的な顔で教授を睨みつけるようにしていたのは学生時代変わらぬ作戦であった。
C先生の外観に端を発するエピソードは、その後もどんどん作られた。入局して程なく、科の入院患者からはこの人が教授だと慕われ、絶大な信頼を労せずして得ていった。大学病院からは人手の足りない地方の病院に、若手の医局医師が不定期に応援に出ることがあるが、そんな時病室を一回りしてきたら、今日はめったにない院長先生の回診があった、と患者は大喜びした。
大学の医局では卒業したての医者の卵を教育するにあたり、新米とベテランの二人で組を作り、2人で何人かの入院患者を同時に診療するというペア制度をとっていた。C先生の上になったE先生は運悪く大変な童顔で、患者は何事につけC先生の方を信頼しているような言動をとるので、新しく患者が入院してくると
「私の方が上です、私が指導医です、よろしく」
と言って回らなければならなかった。手術をなかなか承諾しない患者でも、C先生がおもむろに説得すると速やかに承諾するので、他の先生は大いに悔しがった。
同窓仲間のF先生はかなり年配であるが、童顔の中でも筆頭にランクされる。地方の大病院の医長の座にあるが、そこで手術を勧められた患者が、念のためと大学病院を訪れることがある。そこで、F先生の一回りも後輩にあたる若い医者から同じ事を言われて、初めて納得して帰っていく現象は、大学病院という権威の大きさを考えさせられる。
かく言う私は、もらうものはもらい、子供の数が妻の数の3倍になった35才頃まで
「先生に嫁さん世話しようと思うんですけど、、、」
という話が続いた。悪い気はしない、などと呑気な事はいっておれない。これはやはり医者としては大変損なのである。
男性の場合、自排尿と膀胱尿の間に成分の違いは殆ど認められない。しかし、女性、特に成人女性の場合、膣よりの分泌物、出口付近の汗、排便後の少量の便、下着由来のゴミのたぐい、排尿後の一滴程の尿がしばらくの間に変性したもの、などが自排尿に混じって出てくるのはよくあることである。ために、同一人物なのに、膀胱尿には何の異常も認められなくて、自排尿には異常所見がある、と言うケースが生じる。この事実を軽視すると、診断、治療を誤ることにもつながる。これを防ぐために、尿検査の前には、不用な付録を連れた出始めの尿は捨て、途中から以後の尿をうまくコップに入れるように指導するのだが、検査を受ける側にしてみれば、説明するだがうまく理解できず、実際にそうやってみるのはさらに難しいらしい。初めて病院に来た人、辺り一面やや緩み気味の人、耳の遠い人、少しボケ症状のある人とかでは、うまく出来るのがむしろ珍しい。
このような人達から膀胱尿を得るために、ベッドに普通に寝てもらっても、尿道から細い管を入れることは容易ではなく、特殊な姿勢が必要となる。このような膀胱尿の採取操作に加えて、膀胱の中に胃カメラの小型版のような器械を入れて検査をしたり、いろんな処置をしたりするには、男女差なく内診台が必要になる。病気のためだから致し方ないものの、あまりしたくない格好をしなければならない、婦人科にある例の台である。婦人科の診察に際して、内診台が用いられることは一般的にかなり知られているが、泌尿器科にも置いてあることは、あまり知られていない。
男性でこの内診台に乗るチャンス?に恵まれるのは泌尿器科だけであるが、下着をとって台の上に乗る様に説明するとスキを見て逃げられてしまったりえらく立腹されたり 台の上でただ正座した姿勢になられたりという事件も年に数度ではない。
ただ何日か前に、もっと羞恥指数の高い経験をしたことが間違いのない若い女性が
「そんな台に乗るの恥ずかしい」
と言って、ダダをこねているのには同情しないことにしている。
「まだ大分かかりそうですね」
画家は
「一人にさせてくれませんかね」
と、不機嫌に答えたが、その人はその場を去りもせず、さして気にする様子も見せず、ただニコニコしているだけであった。画家は少し気分を害して
「何か、用事でも」
と聞いた。
「いや、実は、私はこの公園に勤めているものですが、家に帰る前には、あの噴水のバルブを止めないといけませんので」
画家は自分の絵を見て事態を了承した。
この話を読んだ頃、同じような思いやりを入院患者から聞いて、以来、全く関係の無い話であるのに、何故か私の頭の中で二つが並んで引き出しの中に入っているのがある。
病院の入院患者用の食事メニューは、日本中どこへ行っても似たようなもので、予算やら何やらいろいろの理由からご馳走は出ない仕掛けになっている。見舞いの品では、昔から、現金、果物、花がベストスリーであるが、病気と言っても食事の規制はほとんどない入院患者もおり、ご飯のおかずになるような物を持ってくる人もいる。家族以外でこういうことをするのは、過去に入院経験のある人に多い。でもそう再々という訳にはいかないので。そうした場合の品は、ある程度保存の効くものということになる。ここまで考えてから、見舞いに来るだけでも相当と言わねばならない。それが、何種類かの珍味の入ったビン詰めの、しっかり締まっている蓋をいったん開けてから、改めて緩く締め直して持って来た人のいることを知った。その話を聞かせてくれた患者は、ビンの蓋の緩い訳を送り主の人柄をよく知っているだけに、直感的に悟りました、と美味しそうに、花ラッキョウを口に運んでいた。
世の中には同じくらい気の付く人はいるもので、女房が買ってきた雑誌「暮らしの手帖」に、ほとんど同じ様な記事が出ていた。
そんなことをしたら、中身が腐ってしまうんではないだろうか
少し食べたと思われはせんだろうか
と思う人は、送る資格の無い友人である。
]]>訴えは腹痛、頭痛、吐き気、などが一般的で、とても辛そうにする(敵もさるもの、客観的に証明し難い症状が揃っている)。夕方にやって来る。入院を強く希望する。その際、片方は必ず付き添いを希望する。旅行者にしては不自然にも必ず保健証を持っている。血液検査やX線検査を極度に嫌う。病人のくせに食事はきれいにたいらげる。夜は二人ともよく眠る。翌朝になると、症状は嘘みたいに消えている。朝食を済ませて直ぐ退院になる。
食事が豪華版でない事に目をつむれば、ひとり分の入院治療代プラス付き添い人の寝具、食事代の合計はホテルよりかなり格安である。事の成りゆき上、1本くらいは点滴をされることもあろう、何てたって本当に病気になっても、主治医は同じ屋根の下にいる安全な宿である。もったいないことに、何もなくても、熟睡中の夜中には、1~2回のナースの見回りサービス付きである。
輪島の病院には、毎年夏がやって来ると、必ずこの種の患者が何人か入院するという。
私は病院を退院した後、翌日のホテルでの病人と付き添い人の配役分担、入院費ワリカンの実体、などにとても興味があったがその情報は得られなかった。
私の知人で夏に日本一周旅行をした際、夜はほとんど行く先々の大きな病院の廊下にあるソファーの上を、ホテル代わりにしてした賢い人物がいた。もちろん無断宿泊である。もっともこれは病人にならないから食事は出なかった。彼は私に
「お前、蚊取り線香、あれは持っていかんと大変だ」
と教えてくれた。
考えてみれば、大きな病院内は安全で、外部に対してかなり無防備である。夏の蒸し暑い晩、入院患者の本当の付き添い人などが廊下に出て、ソファーに寝そべっている光景は、病院スタッフにとってそれほど奇異には写らない。仮に部外者が紛れ込んでいたとしても、よっぽどの身なりでもない限り
「貴方は誰ですか?」
とは聞かれない。
大きな病院には、あちこちに訳の分からない出入り口がいっぱいあり、そこを、白衣を着ない私服の職員はもちろん、患者の付き添い人、見舞客、薬剤メーカーの人、医療器具メーカーの人など、幅広い人種が夜昼なく行き来している。そんな中で、寝間着以外の服装をした人物の氏、素性を判別するのは極めて難しい。こんな特殊性を有する建物は他にちょっと見当らない。
そのほかに、入院患者は比較的現金を手元に置いている事が多い、という点に注目する人の何人かは、病院専門の泥棒になるのだが、その話はまた別の機会にするとしよう。
]]>ある日、何度目かの膀胱の検査を済まし、静さんは何ごともなかったように帰っていった。
病院の外来は3階であった。静さんはエレベーターを使って下の玄関口まで降りようとした。その時運良く?エレベーターは上に向かって動いていた。静さんはエレベーターを待たずに、階段を使って下方面に移動した。足元から女の中心に入り込む風の感じが、いつもと違う感じがした。さらに23段降りてみて、はっきり違うと確信した。何分かのためらいの後、再び泌尿器科の受付に戻って来た。
「あのう、内診台の横のカゴの中に何かありませんでしたあー?」
ナースは聞き直した。
「はあ、カゴの中ですか。今、男の人が検査中なんですけどねー」
検査終了を待つ気配はない。
「あの、私のもの、何かありませーん?」
事態の収拾を急ぐ声が続いた。
ナースはカゴの中を調べ始めた。フンドシやら腹巻きやらの下になって、明らかにそのおじいちゃんの所有物ではない、薄い色のパンティが1枚見つかった。
「これですか」
「あ、それそれ、私の」
そのとき、私はとても忙しかったが、静さんが受け取ったブツをくるくると丸めるとハンドバッグにねじ込んで、そのまま帰っていくのを盗み見ることができるくらいは暇だった。
以来、パンティ事件の静ちゃんということで妙に親しみを覚え、その料理屋さんには何度か足を運ぶことになった。そして、そこのご主人やら、他の仲居さんともすっかり顔なじみとなった。
それから6年ほどの月日が流れ、静ちゃんは泌尿器科のガンで亡くなった。その間には何度か入退院が繰り返され、いろんな治療がなされ、いろんな会話が交わされたが、なぜか今は、受付に戻ってきたときの、あの顔だけが思い出される。
それから、時を前後してその料理屋もなくなり、何とも淋しい限りとなった。
]]>真性包茎は先の開いている部分が狭く、尿の出方や、出る方向に異常を来すことがある。また、おからのような乳白色の恥垢(ちこう)が貯まりやすく不潔になりやすく、形成手術をしたほうが良い。
仮性包茎は包皮内を清潔にしておけば、排尿や性的傷害は無い。ただ青年期には、女性が胸が貧弱で悩むのと同じような意味合いから、劣等感の原因の一つになることがある。
一般に、包茎手術を希望して来院する青年が一番気に病んでいるのは、そのままにしておくとどうもガンになるらしい、という知識である。これは割礼(かつれい)といって包茎手術を習慣的に行うユダヤ人や、回教徒には陰茎ガンの発生が少ないという事実に基づいて、大衆誌などで広く世に広まっている“常識”が受診理由である。しかし、陰茎ガンは数あるガンの中でも比較的マレなガンで、包茎を放置しておくと、そのうちほとんどガンになってしまうというのは間違いである。宮城県、大阪府、岡山県で行われたガン発生調査結果によれば、陰茎ガンの発生率は、人口百万人に対して僅か1〜5人である。外国の調査結果でも、高率と言われるブラジルやジャマイカでさえ6人前後である。だから包茎ゆえに陰茎ガンになる確率は、煙草を吸い続けて肺ガンになったり、飲酒運転して死亡事故につながったりする確率よりは、問題にならないくらいに低い。
頼まれて、八十少し前の仮性包茎手術をしたことがある。通常なら私の気の進まない年齢である。
連れ合いを亡くし、暫く入院する事情が出来た、その際息子の嫁に“しも”の世話にならにゃならん、その時嫁に、「あらあ、お義父さんは包茎だったのね」って見られるのが嫌だ、ただそれだけのために手術をして欲しい、という事情であった。私はその老人の切ない希望を受け入れた。
ほかに、男のメンツのためとか言う理由にうまく反論出来ずに、3ケタの数の若い男性に手術をしてきた。大手術ではないにしろ、曲がりなりにも、十針くらいは皮膚を縫い合わせてあるにもかかわらず、手術当日の夜に、現場から(電話のあっちで女性の声が聞こえた)
「今、し始めたんだけどおー、糸がねー、えらく都合悪いわー、血 も出るしー、センセなんとかしてやー」
と、自宅に電話がかかってきたこともある。
]]>ほかに、血尿はあっても、他に痛みや発熱などの症状を全く伴わないものは、別に無症候性血尿と呼ばれる。これは何時も何時も真正面だけを睨んだ姿勢でやや暗い、くみ取り式のトイレをいつも使い後始末の紙をしげしげと広げて見る習慣はない女性の場合長い間気づかれないままのことがある。
顕微鏡的血尿を理由に病院を訪れる人達は、職場や学校の検診で言われた、自覚的に苦痛を訴えない集団である。つまり来院は第三者の半強制的勧めによる。ここが肉眼的血尿を訴えてやって来る人との決定的な差で、検査にかなり非協力的である。顕微鏡を手元に置き、日々自分の尿を調べてみるのが趣味である、と言う人がいれば、自らの意志で来院するかも知れないが、そのような変人は極めて少ない。
外見的に普通の血尿と変わらないが、顕微鏡で調べてみると全体が赤いだけで、赤血球がほとんど認められない尿があり、ヘモグロビン尿と言われる。普通の血尿を、透明なゴムのヨーヨーに赤い液を入れ、水の中にぎっしり浮かべた状態とすると、風船がほとんどパンクして、中の赤い液がみんな水の中に出てしまった状態がこれである。炎天下に長時間重い荷物を背負って行軍するといった、ハードスケジュールをこなすと、ションベンに血の混じることはよく知られた事実である。近年では、マラソンのゴール後の、一過性の血尿もよく報道されている。こうした血尿はほとんどがヘモグロビン尿で、極端な疲労が赤血球を包んでいる膜を破ってしまうことによる。疲労が回復すれば自然に消失するのが普通である。
汗を沢山かき、尿がほんの少ししかでない場合には尿は濃縮され、色も、臭いも濃縮され、血尿と間違われることもある。
ある種の薬剤で、尿が血尿に似た色合いを呈することもある。
例えば、寝る前にみかんを20個食べた翌朝の尿は、かなり血尿に似た色となる。
このように、ひとくちに血尿と言ってもその内容はいろいろであり、電話口で
「大分前からオシッコに赤い色がつく、痛くも痒くも無い、検査は恐ろしいから嫌だ、先生、何という病気でしょうか?うつるんでしょうか?薬で治るでしょうか?食べ物と関係あるでしょうか?ガンでしょうか?」
などと聞かれても、一発回答は無理というものである。
]]>「お前、さっきのあれは、カミナリやでー、気ついてるんかー」
と指摘されなければ分からないような、小型のものまでいろいろであった。カミナリも大型のが連発する事態となると、教授もついつい、隠語を抜かし、話は純粋な日本語だけに変化してしまう。
回診が終わってから、カミナリの現場に居合わせた受け持ち患者から
「先生、さっきは医長先生にえらく叱られていなすったねー、わたしゃ見ていて先生に申し訳なくって、ホントに私みたいな何時死んでもいいような年寄りが、こんな長生きをしているばっかりに、先生にまでご迷惑をおかけして、すみませんねー」
と主治医が慰められる一場面もあった。
このカミナリは、本来一人の患者の回診が済んで、次の患者へ順番が回れば消滅する性格のものであるが、運悪く次の患者も同じ主治医の受け持ちである場合には
「何だまた君の患者か」
と話は最初から少し不利な雲行きとなり、そうした場合には、平和なら問題にならない様な受け答えにも、カミナリの落ちることがあった。
患者も入院期間の長いベテラン組になると、横文字の一部を知るようになる。患者の状態をそれ程細かく把握していない時、教授から
「このクランケ(患者)の昨夜のハルン(尿)の回数は?」
と聞かれて、内心あわてて
「はい二回です」
と適当に答えたら、目の前の患者がむっくり起きあがって
「先生、昨夜は、私、五回オシッコに起きましたよ」
と言われて大恥をかいたこともある。
病名を伏せてある患者から
「先生、私はやっぱりガンなんでしょう、さっきのツモール(腫瘍)、ツモールって話、ツモールってガンのことでしょう?」
と言われてとても困ったこともあった。
]]>当時、この要望に応える特効薬は私の頭の中になかった。しかし事情には、男として共感の余地があった。ホルモン異常などが原因で起こる、インポ用の薬剤は何種類か作られていたが、見るべき効果はないのが現実であった。
私は作戦を練って
「未だ発売されて間もないが、とてもいい注射がある、1本や2本では効かないかも知れないので、しばらく通っください、外国製の注射で、少し値段は高いですよ」
と答えた。その人は
「カネは多少高くても構わない、お願いします」と言った。
そして、治療が開始された。注射が3本済んだところで経過報告があった。
「いやー、あの注射は効きますなー、この頃、朝立ちがあるんですわー」
治療は継続された。
「先生、もう大丈夫ですわ、式は未だですがいっぺんリハーサルやってみますわー、結果は報告に来ますよ」
何日かして、その人はにこやかにやって来た。
「先生ありがとうございました、うまくいきました。これで男が立ちます、恩にきます」
それは発情期にあるオスの鹿の角を材料にして作られた製剤であるが、これほど感謝されたのは初めてであった。しかしあのご主人には、何の注射をしても結果は同じ様なものだったかもしれない。
これは、けっこう値の張る注射であるとか、注射のたびに「これは効きますよー、効いてきたでしょう、ね、ね、効いてきたでしょう」と繰り返し声をかけたのが、相乗的に良い結果となったように思えてならなかった。
私はその後、結婚式がすんでから、紅白のまんじゅうをいっぱい頂いた。
]]>客の腹痛はその直後に発生した。親切な運転手は事故との因果関係を深く信じて、その人物を連れてきた。来院者二人は仲良く肩を組んでいた。
しかし、一方は体重のほとんどを他方の善人に預けている格好だった。看護師がベッドに寝かしつけようとしている最中にも、何やら訳の分からないことを大声を挙げてしゃべり、私が近づいて行くのも視界には入っていないような有様だった。
診察を始めると間もなく、その人は、突然に
「うんこや、うんこ、うんこさせてくれー」
と叫んだ。私は一瞬とまどい
「トイレ行きますか」
と、我ながらクラシックでオーソドックスな医学的処置を提案したが
「いやー、トイレはだめやー、今出てしまうー」
という答えだったので、やむなくナースにその辺にあった洗面器を持ってきてもらった。器があてがわれるや否や、本人は自発的に超スピードでズボンを下げ、救急室のど真ん中、公衆の面前で、排泄を開始した。量はかなりのものであった。
一件落着後、患者は
「先生、腹痛いのもう治りました。何ともないです」
と帰り支度を始めた。私は事故の一部始終を話し、念のためいくつか検査をした方がいいことを提案したが
「いや、大丈夫、なんともありません」
と言い残して、逃げるように帰ってしまった。後には、部屋の中を洗面器から発生する白い煙が、のんびりと天井に向かって伸びていた。
こういった場合に、治療費の請求はどのようになるのか、私は知らない。そして私は、家に帰れば妻子が待っているであろう、その人の白い尻を一生忘れることはないであろう。
さて、臨床医学分野は最近とみに細分化の傾向にあり、深いが、狭い範囲の知識や、技術しか有しない医師が増えるという現象が起きている。しかし、このような専門家の手を必要としている患者が激増している訳ではなく、臨床の現場で多いのは相変わらず、風邪、腹痛、 頭痛、腰痛、便秘、下痢、糖尿病、心臓病、高血圧、リウマチなど昔ながらの病気である。
医師と言う職業が世の中に存在し始めた頃には、医療施設を訪れた人達は「なんともない」か「びょーき」の二種類にしか分類されなかった。病名は「びょーき」という一つだけだったのである。その「びょーき」には実は種々さまざまなものがあり、今や病名だけで一冊の本になる。病気が飛躍的に増えているのではない、病名が増えてきているだけである。しかし日本中探しても、せいぜい百例に満たない様な病気のことでも、知らない医師は、出るところに出ると
「知らないとはけしからん、当然知っている義務があるのであーる」
と、医療界以外の人達から無能呼ばわりされる。
ある日ある時、一通りのその知識を頭に詰め込んでおかないと、国家試験をパスして、晴れて医師の世界にたどり着く事は出来ない仕掛けになっている。
僻地医療の前では、例えば、高名な耳鼻咽喉科医も泌尿器科医も影は薄くなる。逆に、浅くても広い診療を余儀なくされている医師は、それが例えベテランでも、専門大病院にいけば、活躍出来る場がほとんどない。今は、1人の人間にこの両方を同時に求める時代ではない。
実際の医療現場では、例えば患者との対話時に一番大事なことは何か、お金に余裕のない患者への診察時に必要な知識は何か、同じ病気でも、高齢者に対してはどのように発想を変えなければいけないか、同じ成分の薬はどれとどれか、ナースや他の医療職スタッフと、丸くチーム医療をするには何が必要か、保険の効かない診療行為はそれぞれの疾患でどれどれか、入院証明書記入にあたって大事なポイントは何か、診断書記入にあたって大事なポイントは何か、などの問題の方が重要であるが、これらの答えが、医学部授業中に講義されることはほとんどない。
]]>このように受精が成立するまでに必要ないくつかの行程のうち一つでも欠けると、通常の妊娠は不可能になる。これを逆に避妊手段に利用する為に行う手術を男性ではパイプカット(精管結紮)、女性では卵管結紮という。手術時間も手間も男性側の方が簡単で、アメリカでは年間に万単位の人が受けており、何の副作用の無いことも証明されている。しかし何故か、我が国では不妊手術を受ける人は圧倒的に女性側に多い。
パイプカット手術には入院は必要なく、歩いて来て、歩いて帰宅出来る。残念ながら保険の通る診療行為ではないが、そんなに値段の高いものではない。ただ、手術後にはちょっとした注意が必要で、カットした部位より出口に近い輸送路には、既に発送済みの精子がいる事実である。つまり、術後5~6回分の射精(品のない男の世界では、それを“5、6パツ”などと表現する)に関しては、手術前と条件は何ら変わらない。だから、手術後は、小さなガーゼが患部にあたっているだけなので、セックスも可能だからといって「やった、やった、今日からは安心してやるぞー」と直後から無防備にハッスルするのは間違いのもとである。
不妊手術は数多くある他の避妊手段に比較して、ずば抜けた確実性を持っているが、人生の予定が変わって、後日、精管の繋ぎ直し形成手術を依頼されても、その成功率は週刊誌などで言われているほど、高くはない。
ところで、一握りの人達は、陰茎の中にはれっきとした骨があると信じている。少し進んで、軟骨くらいはあるのだろうと理解している人種もいる。ものがものだけに、男性はもちろん、女性もその構造に思いを巡らせることが、一生のうちに何度かあるはずである。陰茎には骨も軟骨も存在しない。
構造を寿司のカッパ巻きに例えると、キュウリの部分は尿道、シャリは海綿体と呼ばれるスポンジのような組織、ノリは白膜と言う頑丈な覆い、その外側が皮膚にである。
米の部分は体積の変化が著しく“いざ鎌倉”の時には、中央の指令により増大することになっている。この尿道や海綿体を補強しているのが白膜でとても丈夫に出来ている。従って、陰茎が何らかの外力により“ポキン”となっても、陰茎骨折とは言わず、陰茎折症という病名が付けられる。
陰茎折症は、原則としてボッ起が前提として存在しなければ発生しない。比較的珍しい種類の外傷で、報告例は日本中でも年に二十例に満たない。
数少ない統計資料によれば、原因となった背後の一般的な状況は寝床の中でボッ起陰茎を手で曲げたり、押さえたりという自慰の類似行為が約半数を占めて圧倒的に多く“最中”というのは心配する程多くはない。
症状としては受傷と同時に、白膜の断裂音として本当に「ボキッ」とか「ブスッ」といった音がするとされる。
事件が発生してから受診までの期間はその当日が最も多いが、一方、1~2週間後というのもあり、羞恥心もさることながら、この外傷は思ったほどの痛みがないなど、比較的苦痛を伴わないことがその原因であろうと思われる。
症状がきわめて個人的なものでは単車を運転中にバウンドして転倒し、その時たまたまボッ起していた急所を打った、浴室で石鹸をふんづけて、その時ボッ起していた陰茎を打った、久しぶりのラブラブタイムにて、パートナー(文献には、興奮した女性とある)が馬乗りになり激しく動いたため、早朝、男性特有現象発生時、子供(妻ではない)が突然「おとーさーん」と布団の上に飛び乗ってきた、など、人間味あふるる話が多い。
この外傷は医学的にもマレな部類に入るが、その特殊性故に被害者自身の口から他人に話されることは皆無と言ってよく、また医療側にしても、職場の同僚の目に触れるかも知れない病状証明書や、保険の入院証明書には、武士の情けで、別の無難な病名を書くことも多い。それらの結果として、この外傷は一般の人々の間ではついぞ話題になることのない、いわば幻の不幸である。
]]>結婚すれば天下御免で始まることになっている“秘め事”は、女性では、ご近所の尿道口付近も大騒ぎさせる結果となり、付近にいるバイ菌は容易に膀胱方面に移動してくる。事実、この“秘め事”の年代別頻度と膀胱炎の発生頻度は、統計的によく相関する事が知 られており、結婚直後に認められる典型的なものには、蜜月膀胱炎(新婚性膀胱炎)という特別製の病名が用意されている。
ひと昔前までは嫁に行った娘に前記の症状が現れると、女性側の親は、もっぱら、相手の亭主はもともと何か悪い病気持ちで、うちの大事な娘は新婚早々その病気をうつされた、などと話が始まり、挙げ句の果ては離婚騒ぎにまで発展した例もあった。しかし日本も最近は結婚までは純潔を守る、という道徳も有名無実となり、独身の女性もどんどん“蜜月膀胱炎”にかかる。
一般に、性交に続発する膀胱炎は、世のどの既婚女性にも可能性はある。しかし、定期的に始まると、女性というものは、だんだんそのあたりが図太くなって、ちょっとやそっと荒立てたってびくともしなくなり、蜜月膀胱炎を繰り返し起こす事態にはならない。
H時、H後に膀胱方面に侵入せんとしている、あたりのバイ菌は直ぐには膀胱に到達しない。従って、ことの後に排尿をする習慣をつけると、尿道の出口からそろそろと膀胱方面にはい上がろうとしているバイ菌を、反対に外に押し戻す結果となり、膀胱炎の発生率は極端に減る。これを性交後排尿といい、正式に医学書に記載があるが、母親も、友達も、学校の先生も、誰もそんなテクニックを教えてはくれない。
ただ、“これ済んだら、オシッコに、行こ、行こ”と思いながら、ことに及ぶのは、あまりムードが出ないかも知れない。また、余韻を楽しむとか、眠いとかの別ジャンルの世界からは 非難を浴びそうな野暮な話かも知れない。
日本にはかなり昔から「ロウガイ」などと並んで「ショウカチ」という漢方病名があり、現在でも膀胱炎と同じ意味に使われることがある。しかし、これは正式には、女性に認められる急性膀胱炎の中でそのバイ菌がリン菌によるもの、つまりリン病だけをさすものである。
最近、独身の娘さんが膀胱炎様の症状を訴えて科に来る既婚者に対する割合は想像以上である。少しばかり本人から話を聞くが、その中で彼氏とHしたことと関連づけて述べる患者はほとんどいない。
それで、必ずその方面の質問をすることにしている。別にその詳細に興味がある訳ではない。こちらは、本人が妊娠しているか、否かが知りたいだけである。妊娠ほやほやであることが確認されれば、あまり薬は処方したくない。
ほとんどが、さかのぼること2~3日前に事件がある。
「えー、Hと何か関係あるんですかー」
「えー、ちゃんとゴム使ってたのにぃー」
「シャワーちゃんとしてからしたのにぃー」
「彼が悪いのかなー」
「ヤダー、先生、これって性病?」
「何回もしたからかなあ」
など、若い人はあっけらかんとした受け答えが多い。
これが、性交渉はもう卒業している年齢だと、世の中で思われてしかるべき中年の女性だと(よくよく考えてみるとそんな年齢はないのだが、何故か日本社会には“いい年こいて、そんなこと”という、厳しい暗黙の常識が存在する)、少々反応が違ってくる。肝心な質問には答えず
「冷房で冷えたのが悪かったんでしょうか」
「新しく買ったスカートの風通しが、すーすーすしたんで」
「旅先で入った公衆便所が汚れていたんで、きっとバイ菌はそこから入ったんですね」
などと、素直でない返答になる。
もともと他の病気を持っている女性ならともかく、そうでない場合には、セックスと関係のない膀胱炎はない様に思える。ただ寝たきりや、オムツを常用している老人女性といった特殊例では、この考え方は当てはまらない。一方、男性が普通の膀胱炎になること自体異常なことで、そうした場合、背景にある隠れた病気を探すことが大切である。
単純な膀胱炎は、例えば風邪と同じで、放っておいても日が経てば良くなる。だから妊娠早々には、薬は服用しないのにこしたことはない。ただバイ菌がありふれた種類のものでく、特殊な種類である場合には、ちゃんと治療しないといくつかの後遺症を残して、不完全に治癒する。その判断は素人がするものではない。
動物を使って実験した結果によれば、正常な膀胱の中にバイ菌を注入しても膀胱炎は発症しない。しかし、予め膀胱や膀胱粘膜と連続性を有する尿道粘膜に小さな傷でもつけておくと、同じことで膀胱は炎症の場に変化する。これは少しくらい汚い目にあっても健康 な皮膚ならば化膿することはないが、切り傷でもあったりすると、いわゆる“うんでくる”のと同じ理屈である。
]]>医学とは少なくとも、一般大衆よりは近い距離に位置すると思われる薬学の先生からさえも「私の母が痔で困っとるんですわ一、明日そちらを受診させますのでよろしゅうお願いしますわ一」などと電話を貰ったりもする。
入院患者にかなりの検査、話し合いの時間を経て「それじゃ、○○日に手術をしましょう」と話すと「手術は外科の先生にやってもらうんですか?」と言われてがっかりすることもある。
訪れた外来患者に「何処が具合悪いんですか」と尋ねたら「ここにブツブツが」と舌を見せられ「それでなんで泌尿器科に?」と聞いたら「「シタ」のヤマイは泌尿器科じゃないんですか?」だったという嘘のような本当の話もある。
泌尿器科病棟に勤務する独身ナースが、他人から何処の病棟におられるんですかと聞かれると、やや小さな声で泌尿器科ですと答えるらしいのは、泌尿器科医として、とても不本意である。少なくとも、はい外科病棟です、とか答える時より、声に張りがないのは事実のようである。
泌尿器科は、尿が通過する臓器、つまり腎臓、尿管、膀胱、尿道に加えて、男性の生殖器(精巣(俗にいうキン○マ)、前立腺、陰茎など)、ホルモン分泌器官として重要な副腎、などの病気を扱うれっきとした外科の一分野である。泌尿器科医はもちろん、リン病などの性病も診てはいるが、それがほとんどの仕事であった時代は過ぎ、今や臓器移植の分野では最先端を走っている。
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