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[第4話]洗面器の中身、専門化、誰も教えてくれない

それは粉雪が舞い始めた、11月末の午前零時近くの出来事だった。その日は、急患もほとんど無く、私は宿直室の冷たいせんべい布団の中で寝ようとしていた。

来院者は2人の中年男性で、シラフの方の説明によれば、その客を乗せてしばらくして事故は発生した。交差点内で他の車を避けようとして、ハンドルを切りながら急ブレーキを踏んだところ、地球表面の冬季的特殊事情が災いして車は横転し、ちょうど360度回って、静止したという。運転手はその間、シートベルトに任せて身構えたこともあって、車の中の硬い部分には何処にも接触しなかった。その際、後の座席にいた人は、車内のあちこちにぶつかったらしいが、なにしろ意識がモーローとしているものだから、起こった車の詳細は知る由もなく、「おーい、運ちゃん、どーしたんやー」と、そのご機嫌さはいささかも衰えなかったらしい。

客の腹痛はその直後に発生した。親切な運転手は事故との因果関係を深く信じて、その人物を連れてきた。来院者二人は仲良く肩を組んでいた。

しかし、一方は体重のほとんどを他方の善人に預けている格好だった。看護師がベッドに寝かしつけようとしている最中にも、何やら訳の分からないことを大声を挙げてしゃべり、私が近づいて行くのも視界には入っていないような有様だった。

診察を始めると間もなく、その人は、突然に
「うんこや、うんこ、うんこさせてくれー」

と叫んだ。私は一瞬とまどい
「トイレ行きますか」
と、我ながらクラシックでオーソドックスな医学的処置を提案したが
「いやー、トイレはだめやー、今出てしまうー」
という答えだったので、やむなくナースにその辺にあった洗面器を持ってきてもらった。器があてがわれるや否や、本人は自発的に超スピードでズボンを下げ、救急室のど真ん中、公衆の面前で、排泄を開始した。量はかなりのものであった。

一件落着後、患者は
「先生、腹痛いのもう治りました。何ともないです」
と帰り支度を始めた。私は事故の一部始終を話し、念のためいくつか検査をした方がいいことを提案したが
「いや、大丈夫、なんともありません」
と言い残して、逃げるように帰ってしまった。後には、部屋の中を洗面器から発生する白い煙が、のんびりと天井に向かって伸びていた。

こういった場合に、治療費の請求はどのようになるのか、私は知らない。そして私は、家に帰れば妻子が待っているであろう、その人の白い尻を一生忘れることはないであろう。

さて、臨床医学分野は最近とみに細分化の傾向にあり、深いが、狭い範囲の知識や、技術しか有しない医師が増えるという現象が起きている。しかし、このような専門家の手を必要としている患者が激増している訳ではなく、臨床の現場で多いのは相変わらず、風邪、腹痛、 頭痛、腰痛、便秘、下痢、糖尿病、心臓病、高血圧、リウマチなど昔ながらの病気である。

医師と言う職業が世の中に存在し始めた頃には、医療施設を訪れた人達は「なんともない」か「びょーき」の二種類にしか分類されなかった。病名は「びょーき」という一つだけだったのである。その「びょーき」には実は種々さまざまなものがあり、今や病名だけで一冊の本になる。病気が飛躍的に増えているのではない、病名が増えてきているだけである。しかし日本中探しても、せいぜい百例に満たない様な病気のことでも、知らない医師は、出るところに出ると
「知らないとはけしからん、当然知っている義務があるのであーる」
と、医療界以外の人達から無能呼ばわりされる。

ある日ある時、一通りのその知識を頭に詰め込んでおかないと、国家試験をパスして、晴れて医師の世界にたどり着く事は出来ない仕掛けになっている。

僻地医療の前では、例えば、高名な耳鼻咽喉科医も泌尿器科医も影は薄くなる。逆に、浅くても広い診療を余儀なくされている医師は、それが例えベテランでも、専門大病院にいけば、活躍出来る場がほとんどない。今は、1人の人間にこの両方を同時に求める時代ではない。

実際の医療現場では、例えば患者との対話時に一番大事なことは何か、お金に余裕のない患者への診察時に必要な知識は何か、同じ病気でも、高齢者に対してはどのように発想を変えなければいけないか、同じ成分の薬はどれとどれか、ナースや他の医療職スタッフと、丸くチーム医療をするには何が必要か、保険の効かない診療行為はそれぞれの疾患でどれどれか、入院証明書記入にあたって大事なポイントは何か、診断書記入にあたって大事なポイントは何か、などの問題の方が重要であるが、これらの答えが、医学部授業中に講義されることはほとんどない。

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